
透过吉卜力动画进行哲学思考
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著 小川仁志
译者序
这本书是我在苹果商店发现的,看了一点点,发现作者对吉卜力动画的部分解读很有意思。于是开始翻译此书,并将其发布到我的博客中。
著者序
首先——为什么说透过吉卜力动画进行哲学思考?
吉卜力动画拥有国民级人气,不,甚至可以说具有世界级人气吧。而且不仅是孩子,连大人也能观赏。究其原因,因为动画描绘了重要而深刻的主题。
特に宮崎駿監督の作品には、哲学的と呼ぶにふさわしい深いメッセージが込められています。それは宮崎監督自身が、入り口も出口も同じように敷局の低いディズニー映画と比較して、自分の作品は出口の敷居を高くしていると表現されている通りです。
特别是宫崎骏导演的作品中,潜藏着可以称之为哲学的深层信息。那是宫崎骏监督自身
特别是宫崎骏导演的作品中,蕴含了堪称哲学般深刻的讯息。正如宫崎导演自己所说,与入口和出口同样门槛较低的迪士尼电影相比,他的作品在出口处设置了更高的门槛。
换句话说,虽然表面看上去动画的门槛较低,但因内容深刻,无法简单地将其全部理解,并且会在事后引发思考。这件事,观看过宫崎骏动画的人应该会很快理解吧。
私はこれまで、いわゆる歴史上の哲学者が書いたものを対象に研究をしたり、本を書いたりしてきたのですが、最近は宮崎アニメを哲学の研究対象として扱うようになりました。そして、これまですでにヨーロッパやアメリカでそのことについて発表してきました。
宮崎アニメを哲学するというのは、従来の哲学の学会ではあり得ないことでした。日本学研究やアニメ研究としてはもちろん人気のテーマですが、それはまた別の話です。ところが実際に発表してみると、幸いにも多くの研究者や学生たちから賛成を得ることができたのです。
少しその内容を紹介しておきたいと思います。私の主張は大きく分けて二点です。
まず一点目は、宮崎駿は一般には哲学者とはみなされていないけれども、その作品の内容の奥深さからすると、歴史上の哲学者たちに勝るとも劣らない深い思索をしているということ。
二点目は、ただしそれは、本をテキストとする伝統的な哲学に対して、「アニメ哲学」ともいうべき思考の新しい表現方法であるということです。
哲学であるためには、何がなんでも本を書く必要があるというわけではありません。そもそも哲学の父ソクラテスは、一冊の本も残していません。大事なのは思考、そしてそれを言葉で表現することです。
その意味では、宮崎監督は深く思索し、その成果をアニメという形で表現している哲学者といっても過言ではないのです。その思索の成果が、登場人物たちの言葉で語られるのです。いや、正確にいうと、アニメですから必ずしもすべてが言葉で語られるというわけではありません。
そこが二点目のアニメ哲学に関係してきます。アニメ哲学というのは耳慣れない言葉だと思います。おそらく私の造語です。少なくとも今から定義する意味でのアニメ哲学は、私のオリジナルであるといっていいでしょう。
アニメは本と違って、文字ではなく動画で表現されます。動画は本を読むのと異なり、自分のペースで読み進めていくとこができません。映像が映し出されるがままについていくだけです。たとえば百分間のアニメ映画を観るときは、全員がそれを百分かけて、同じペースで観るのです。
このとき私たちは、やはり何かを考えながら鑑賞しています。そこは哲学書を読んで思考するのと同じなのですが、違うのは「自分のペースではない」という点です。そのため私たちは、理性よりも、どちらかというと感性を動かせて思考しているのです。
じっくりと頭で考えている暇がないので、一つひとつの場面で何かを「感じる」ことのほうが重要になります。これがアニメを観ながら思考するということの意味です。
その営みは、哲学書を読んで理性で考えるというのとは異なります。でも、思考しているのはたしかです。そこで、その感性に重きをおいた新しい思考のあり方をアニメ哲学と名付けたのです。アニメ哲学は、作品と自分の感性をシンクロさせることによって、感じたままを言葉にする営みにほかなりません。
もちろん、アニメ以外の映画でも同様の効果は生じます。しかし、アニメというコンテンツはその性質上、実写に比べるとフィクションの度合いが強くなることから、想像の余地が大きくなります。その点で特殊性を持ちます。言い換えると、思考の幅が広くなるということです。
本書では『風の谷のナウシカ』から『風立ちぬ』まで、宮崎監督が脚本と監督を務めた長編アニメ十作品を取り上げ、そこに登場する主要な諸概念を哲学してみました。これらは、私がおのおのの作品を見ながら思考したことをメモして書きとめ、それをまとめたものです。
先ほど説明した通り、伝統的な哲学と違い、じっくりと文章を読んで、時間をかけて考えたものではありません。感性を最大限鋭くしてその場で考えたことを、きちんと言葉で表現しただけです。もしこれらの文章が形式としては詩やエッセイに近く、それでいて哲学的思考のようなものを感じさせる要素をはらんでいるとしたら、私の試みは成功していると言えるでしょう。
正直、個人的にはうまくいったと感じていますが、最終的にはその成否は読者の皆さんに委ねざるを得ません。
読者の皆さんも、ぜひこれらの作品を観ながら、アニメ哲学に挑戦してみてください。その際、今回の私の思考の成果が、少しでも皆さんの思考の参考になれば幸いです。
なお、各項目に「考えるためのヒント」をつけておきました。これは私がそのテーマについて哲学するにあたって、映画のどの部分に着目したかを示すものです。どこからアプローチすればいいのか、いわば思考の道筋を示すためのヒントだと思ってもらえばいいでしょう。それでは早速始めましょう!
第一章 透过《风之谷的娜乌西卡》进行哲学思考
Story 《风之谷的娜乌西卡》
「火の七日間」と呼ばれる最終戦争によって、文明が崩壊した後、人々は腐海の森から発せられる有毒ガスに悩まされながら生きていた。その中で、風の吹き抜ける「風の谷」に住むナウシカたちだけが、その難を逃れている。
文明崩溃之后,人们。在那之中,唯有居住在“风之谷”的娜乌西卡她们,逃过一劫。
ナウシカは王蟲を始め腐海に棲む生き物たちとの共生を模索していたが、そこに森を焼き払おうとするトルメキア王国の軍隊が現れる。彼らは伝説の巨神兵をよみがえらせようとしていた。
他方、トルメキアと争っていたぺジテ市の側は、王蟲の大群に、風の谷ともどもトルメキア軍を襲わせようとする。それを知ったナウシカは、体を張って王蟲の侵攻を食い止める。
人々の目には、その姿があたかも伝説の救世主のように映った。
“风”是什么?
思考提示
为什么只有娜乌西卡使用飞行器?
風は宮崎駿監督の作品を象徴する存在の一つです。そもそも『風の谷のナウシカ』は、スタジオジブリ設立前の作品とはいえ、そこにつながる最初の本格的な長編アニメです。その作品で風がテーマとなっていることと、宮崎駿が引退を表明した際の作品である『風立ちぬ』でもまた風がテーマになっているのは、決して偶然ではないと思うのです。
はたして風とは何か?『風の谷のナウシカ』では、大きく分けて二つの意味があるように思います。
ナウシカの住む世界は、腐海から発する猛毒の胞子によって、もはやガスマスクなしには呼吸もできない状況に陥っています。
ところが、風の谷だけは、風によってその毒から守られているのです。いわば風のおかげで人々が命を育むことができているわけです風によって運ばれてくるきれいな空気が、胞子を吹き飛ばし、命を守っている。「命を運ぶ風」、これがこの作品における一つ目の風の意味です。
二つ目は、ナウシカがメーヴェによって風を乗りこなして、自在に空を飛びうるということです。まるで風使いのように、彼女は風を操り、風と一体となります。そうして思いのままに移動するので。まさに、「自由を運ぶ風」といえるでしょう。
ほかの登場人物たちにはそれができません。皆エンジンのついた乗り物に乗って、風とはほぼ無関係に空を飛ぶのです。ここでいえるのは、ナウシカが特別な存在として描かれていることからもわかるように、エンジンで飛ぶより、風に乗るほうが優れているということです。
風はそれほど偉大な存在なのです。風は神話などで神にたとえられることもあります。風を操れるということは、神を操るのと同じなのです。ナウシカはこの作品でキリスト教の救世主のごとく描かれていますが、それは風という名の神を操ることができる存在だからかもしれません。
風がいかに制御できないものであるかは、現代の飛行機でさえも乱気流などの風によって飛行を妨げられることがある点を鑑みれば明らかでしょう。その意味でエンジンには限界があるのです。
ですから、もし風を自在に操ることができれば、私たちは世界中をもっと自由に移動することができると違いありません。そう、ここでは、風は自由を運ぶ存在として描かれているのです。空を飛ぶことができない人間に、自由を与える存在が風にほかなりません。人間にとって、エンジンなしに空を飛べるということは、特別な自由を与えられることを意味するのです。
実は、一つ目の「命を運ぶ風」と二つ目の「自由を運ぶ風」という二つの風の意味には、共通している要素があります。それは「運ぶ」という部分です。
風はただ吹いているように思いがちですが、本当は何かを運んでいるのです。風媒花という種類の花がありますが、あれは風によって花粉が飛ぶことで受粉し、花が咲くのです。
あるいは匂い。「東風吹かば匂い起こせよ梅の花」。菅原道真の有名な和歌ですが、これは道真が左遷された先で、風が吹くならせめて故郷の梅の匂いを届けてほしいと歌ったものです。匂いに限らず、風の温度や湿度で私たちは季節の変化や天候の変化を感じたりします。風の便りや風の噂などという表現もあります。
風には物事を運び伝える、いわば媒介する役割があるのです。この媒介こそが風の本質であるといってもいいのではないでしょうか。能力に限りのある人間が、この地球上で様々な困難の中生きていく際、風は必要とするものと人間とをつないでくれるのです。その意味で、風は生きるために不可欠の媒介なのです。
ある一つの答え
「風」とは、生きるための媒介
「虫」とは何か?
考えるためのヒント
ナウシカが王蟲を守ろうとした理由
虫とは何か?気持ち悪いもの?それとも小さいもの?『風の谷のナウシカ』に出てくる虫、王蟲は、気持ち悪い姿をしていますが、サイズは巨大です。大型動物並みのサイズであるにもかかわらず、虫なのです。つまり、サイズが問題なのではなくて、やはりあの気持ち悪さが虫の特徴といえそうです。
虫の種類は色々ありますが、王蟲のように脚がたくさんある芋虫のお化けのような虫は、特に人から気持ち悪がられます。
一般に昆虫は頭・胸・腹に分かれており、六本の脚が生えています。これだけでも人間とはかなり異なる形状ですが、芋虫はもっとかけ離れています。おそらくこの人間とはまったく異なる形状が、気持ち悪さの原因なのだと思います。
しかし、同時に虫には美しさも宿っています。蝶の羽はいうまでもなく、玉虫の輝く甲殻やカブトムシの凛とした角、ミドリ色の芋虫でさえ、人間にとって美と映ることがあるのです。そういえば、ナウシカも王蟲が脱皮した後の殻を「きれい」と表現していました。気持ち悪いのに美しい。この矛盾をいったいどう解すればいいのでしょうか。ヒントは人間との比較にあるように思います。
虫の形状や色は明らかに人間と異なります。つまり人間にないものを持っている。これが生理的に気持ち悪さをもたらすわけです。人には自分とは違うものを排除しようとする本能がありますから。その反面、この違いこそが人間の憧れを刺激し、美を感じさせる要因にもなりうるのです。
虫に見出された美は、また虫に対する畏敬へとつながり得ます。虫はすごいと。たとえば、アリの大群が大きなことを成し遂げる姿を称賛したり、甘いはちみつをつくってくれるミツバチに感謝したり。
王蟲にも役割がありました。それは腐った空気に満ちた腐海と呼ばれる森を浄化するという大切な役割です。だらかナウシカは王蟲を守ろうとさえしました。そう、虫は守るべき存在でもあるのです。
「一寸の虫にも五分の魂」という表現があります。虫は小さい存在だけれども、この世界を構成する一員であり、それぞれ役割を持っているのです。
一言でいうと、それは自然を守るという役割です。虫は自然の中に棲んでおり、自然を構成しています。虫は自然の象徴なのです。ですから、虫を守ることは、自然を守ることでもあります。特に子どもにとって、虫は自然の代表のような存在であり、夏休みに虫を捕ることが、自然世界とのコミュニケーションになっています。
残念ながら、現代社会では子どもたちが虫を捕る機会が減っています。スマートフォン片手にポケモンのモンスターを捕まえることはあっても、網とカゴを持って虫を捕まえに出かけることはないのです。
これはつまり自然とのコミュニケーションを断つことを意味します。自然とのコミュニケーションを断った人間がどのどうな行動に出るかは明らかでしょう。自然への畏敬を失います。そして単なる破壊の対象にしてしまうのです。そこには一人の旧友もいないのですから。共に夏休みを過ごしたカブトムシやセミのような旧友が。
気持ち悪いだけの存在を誰が残そうとするでしょうか。自然とのコミュニケーションの扉を閉ざしてはいけません。小さいけれど、虫は環境保護の大きな入り口なのです。さあ、網とカゴを持って森へ出かけましょう!
ある一つの答え
「虫」とは、自然とのコミュニケーションの扉
「腐敗」とはなにか?
考えるためのヒント
腐海とはどのどうな存在か?
『風の谷のナウシカ』では、皆マスクをしています。腐海と呼ばれる菌類の森から放たれる瘴気が、空気を汚しているからです。もしその空気を直に吸うと、たちまち肺が腐ってしまうといいます。
あたかも中国のPM2・5を思い起こさせる状況ですが、大気汚染を空気の腐敗ととらえているところが面白いと思います。人間の過ちがその状況を招いたことを如実に示しているからです。
腐敗には、その原因によって、二つの意味があるように思います。「生命の循環過程としての腐敗」と、「人為的な過ちによる腐敗」の二つです。
生命の循環過程としての腐敗は極めて正常なものであって、その音の響きとは裏腹に、望ましい事態ですらあります。生命はやがて朽ちていきます。そうして自然に還っていくのです。もし生命がいつまでも腐らずに存在するとしたら、それはもうゾンビの世界です。実際、最近の遺体は生前に防腐剤入りの食物をとりすぎて、土葬してもなかなか腐らないという噓のような話を耳にすることがあります。
人間に限らず、植物も動物も、もちろんと自然に還らないとしたら、まさにそれは自然の喪失を意味します。もっというなら、それは生命の喪失につながりうるのです。
では、どんどん腐ればいいかというと、それもまた問題です。
もし過剰に腐敗したり、一気に大量に腐敗すると循環処理が間に合いません。なんらかの事故によって動物が大量死たりすると、そこから菌が発生し、これもまた生態系に悪影響を与えることになるのです。したがって、腐敗は正常な循環過程にとどめる必要があります。つまり、腐敗にはバランスが求められるということです。腐らないのもいけないけれど、腐りすぎるのもいけないのです。
他方、人為的な過ちによる腐敗は、正当化されることはないように思います。環境汚染を考えれば明らかなように、たとえそれが、人間が恩恵を被るためであっても、自然を「腐敗」させる行為を許してはいけないのです。なぜなら、この地球上、いやこの宇宙には人間だけが棲んでいるわけではないのです。
仮に人間だけに限るとしても、将来の人間まで巻き込んではいけません。環境汚染は将来世代にも迷惑をかける行為です。だからこそ、長期にわたって影響を及ぼすことが明らかな放射能の使用については、慎重な議論が求められるのです。いわゆる原発の是非です。
また、人為的な腐敗には、環境汚染だけでなく、賄賂や横領など立場を悪用した腐敗もあります。こうした犯罪による腐敗防止が求められるのは当然です。この例から明らかなように、人為的な腐敗についてはバランスなどありません。腐敗は一切求められないといっていいでしょう。
問題は、自然の腐敗を人間の腐敗が助長していることです。人為的な腐敗の結果、自然が腐敗しているといってもいいでしょう。そして人為的な腐敗が決して認められるものではない以上、それに起因する自然の腐敗も決して認められるものではないのです
人間が助長した自然の腐敗は、それがどんな程度のものであったとしても、常にバランスを欠いているわけです。人間が自然にかかわることができるのは、それは保護する場合のみです。
『風の谷のナウシカ』で正しいのは、自然と共生することを選んだナウシカだけでした。PM2・5に苦しみ、温暖化による異常現象に苦しむ私たちは、皆ナウシカに倣わなければならないのです。
ある一つの答え
「腐敗」とは、生命の循環過程
「谷」とはなにか?
考えるためのヒント
なぜ風の谷だけは平和なのか?
『風の谷のナウシカ』というタイトルが示している通り、ナウシカたちは谷の住んています。その地形のおかげで、森が発する毒に汚染されることなく生活を送れています。風の谷と呼ばれるその場所は、海からの風が吹き抜けることで、空気を清浄に保つことができているのです。
通常、谷は、山に挟まれた周囲より標高の低い土地が、細長く溝状に連なって形成されています。したがって、その溝の部分を風が吹き抜けていくわけです。その山に挟まれた形状から、あたかも隠された場所のような印象を受けます。世界のポケットのように隔離された場所、いわば秘密の場所なのです。
その場所だけ就位とは違って、何か特別なことが起こる、そんな場所です。ナウシカたちの住む風の谷も、ほかの場所とは違って、マスクをつけずに人が住むことができる特別な場所です。
よく山と谷が比較されますが、山は突起しているので目立つ一方、谷はくぼんでいるので、隠れています。また「人生山あり谷あり」というとき、谷は悪いことの象徴として使われます。
つまり、谷はつらいことを意味する言葉でもあるのです。風の谷もある意味で試練を受けているので、人々のつらさを象徴しているといってもいいかもしれません。
もっと直接的に「死の谷」という表現もよく使われます。アメリカの死の谷が一番有名です。気温が高く、乾燥した場所です。ロシアの死の谷は、有毒ガスが出ている文字通り死を招く谷です。ビジネス用語にも死の谷というのがあります。基礎研究を実用化する際に直面する障壁のことを指します。
いずれもくぼみにはまり込んで容易に抜け出せない状況を想起させるものです。ところが、なぜか谷は人を引きつけます。それは隠された場所だからというだけでなく、あの美しさに理由があるのではないでしょうか。
ナウシカの住む風の谷もとても美しい場所でした。まるでそこだけ空の景色を切り取ったかのような不思議な空間。山と山の間に緑の川が流れるかのように平地が細長く連なり、光が射しこんでくる。
おそらく山を越えてきた人たちにとっては、視界が開けたとたんに飛び込んでくるこの美しい景色はユートピアなのです。山と風に守られた美しい場所。それが風の谷なのです。そんな美しい谷に住む人たちは、心も美しくなるようです。谷の人と呼ばれる風の谷の住人たちは、ほかの国の人たちと違って、平和を好み、きれいな空気、きれいな景色は、きっと人の心も浄化するのでしょう。
いや、それだけではありません。風の谷にはナウシカがいます。風の谷の住人が、クシャナに向かっていいます。あなたは同じ姫でも大違いだ、と。クシャナは力で人を支配しようとしたのに対して、ナウシカは慈しみの心で人心をつかみました。
だからどんな戦いにも負けないのです。力だけで戦おうとすれば、相手国に仕返しされたり、王蟲に襲われたりします。でも慈しみの心で戦う場合は、誰も血を流すことなく、相手の怒りを鎮め勝利をもたらします。
風の谷が平和であり続かるのは、もしかしたら谷を意味するヴァレーのVが、この地ではヴィクトリーのVだからなのかもしれません。
ある一つの答え
「谷」とは、何か特別なことが起こる場所

